埴輪はどこかへ

楽しさも、憂いも、全て旅の中にある。

2022四国旅行:2日目ダイジェスト

心の故郷南予へ、再び。

 

愛媛県南予といえば、もう数年前になりますが、中学生の頃、初めて友人と宿泊を伴う旅行をした時に通った地域です。春の長閑な陽の下ゆったりと走る一両の気動車は私たちを城下町宇和島へと運び、そのあと山を駆ける特急や文化の蓄積が目を見張るまち大洲や、海辺を走るのんびりした時間を楽しんだのでした。今回は前回見ることが出来なかった街へ、その優れを体感する旅です。

松山で起床したのちすぐに出発する心算だったのですが、なんだか城を見ずには去ることはできまいという気持ちになったので、とりあえず徒歩で松山城天守のすぐ下まで。振り返れば、青空のもと、海まで広く栄える松山の街。高く太く聳える石垣と櫓群の対比が大変美しく、何度でも見たい景色の一つです。

 

急いで山を下り駅へ入ると、宇和海は温かな空気を纏って出発の準備をしていました。

 

気がつけば内子へ。とりあえず中心部へ歩きます。初めは平成的と感じられる道すがらも徐々に歴史の味を増して昭和風に。銀行のある四つ角を曲がると、突然明治時代にスリップします。



 

登り切るとクランクがあって、大袈裟でもなく夢にまで見た八日市護国の街並みが目の前に広がります。朝早く、人通りはまばら。クリームイエローによって重厚でありながらも重苦しくないように統一された家並みに、鏝絵や海鼠壁の技が光る豪邸、目の前の格子も大変美しいところです。初めは街道筋として、木蝋の生産で栄えた内子ですが、大正時代末期になると木蝋産業はパラフィンに押され急激に衰微し、それ以降は周辺の物資の集積地として栄えました。その直前に建てられた家並みがタイムカプセルのように残っています。中でも本芳我家住宅は六角形の海鼠壁と成功な鏝絵、そして黄色の蔵と、内子の全ての要素を詰め込んだすばらしい建物です。



初めに駅から見て一番奥の方の上芳我家住宅へ。現在は内子町の施設となり展示施設として公開されています。

 

外から見て正味3階建近い巨大な屋敷からは並外れた財力を感じますが、実は途中で計画は縮小され居住スペースは1階だけ。3階に相当する部分には巨大な梁が縦横無尽に張り巡らされています。

ただし一階部分の部屋の景観はほんとうに繊細な表現も多く素晴らしい。

1階の中庭を囲む部分は現存する建物では大変珍しい唐様の部分で、どことなくエキゾチックな雰囲気を醸し出します。裏に回ると大きな木蝋についての博物館もあり、じっくりと見て回ることができます。

 

街並みはタイムカプセルとはいえどもまだ民間所有で手入れがきちんとされている屋敷も多く、お洒落なパン屋や食事処もあります。松山にお越しの際もぜひ少し足を伸ばしてここまできてほしい、そんなところです。

駅に帰る途中でこちらも重要文化財になった内子座へ。劇場建築はあまり馴染みがなかったのですが、街の寄り合い場所としての機能の強さを感じました。

 

続いて西予市の宇和地区、卯之町の街並みへ。駅前に新しくできた複合施設には土産屋とレストランがあり、昼を食べそびれずに済みました。

 

街並み自体はそこまで長くはないですが、妻入が目立つ点と、すぐ横に明治期の代表的な学校建築の一つである開明学校があるのがチャームポイントでしょうか。コンパクトですが満足感のある街並みです。観光客は実はそれなりにいて、わりかし栄えているという印象でした。愛媛県立の博物館までは近いようで遠いのでたどり着けなかった。

 

続いて宇和島駅で乗り換え。三浦半島の海岸線を舐めまわすようなバスに乗って遊子水荷浦の段畑へ。

 

 

正直言葉を失いました。通常開墾されないような漁村の裏山の超急斜面が、何食わぬ顔で全部石垣で固められています。

農道を歩いて登っていくとまたもう一つ驚きが。一つ一つの畑は本当に狭く、石垣の高さより狭いほど。それぞれの畑を行き来するためにはなんとはしごが用いられ、愛媛県の傾斜地ではよくある”みかんモノレール”がみかんの運搬以外の用途でも使われているようです。段畑の上の方からの眺めは、空を覆う雲の下、それなりの高さの山に三方を囲まれた穏やかな海に漁船だけが軌跡をつくっている、どこか郷愁を誘うようなものでした。こういう漁村にも人々の営みがあって、バスも来るというのはほんとうにかけがえのないことです。

全力で自然や地形に立ち向かっているはずなのに、なんと穏やかに見える景色だろうか。

 

LIBRAさんのプリンでおやつ

そのあと三浦半島の付け根まで戻り、宇和島から宿毛を結ぶ幹線バス系統に乗り換え。(下の写真のバスではなく、城辺ゆきのバス。)

入り口に書かれる、「出口」

夜も遅くなってきたので愛南町の御荘平城で宿泊しました。どこか懐かしいガラス戸の入り口は、車が通るたびにわずかなきしみ声をあげてその生を全うしていました。