埴輪はどこかへ

楽しさも、憂いも、全て旅の中にある。

2022四国旅行:6日目ダイジェスト

流れの変化に、思いを馳せながら。

 

少し更新の間が空いてしまいましたが、四国旅行も6日目。前回は高知市から室戸周りで徳島市までの行程を紹介しましたが、今回は徳島市から内陸周りで岡山市までの行程をご紹介します。今回で四国編は終わりですが、実はそのまま別の旅行につながっているので、更新は引き続き行います。

 

とりあえず朝の徳島市を散歩。中心市街地は徳島駅からは少し離れ、橋を渡った先に細長く展開しています。山も接近している中で、僅かな平地と砂州をうまく生かして造られた都市は、かなり道路網も立派で、全蓋式アーケードなども備えています。ただ、休日の早朝の時間帯、わりと車はありましたが街を歩いている人の姿はほぼ見られず、まだ目を覚ましていない街を一通り眺めるという感じになりました。

 

徳島駅からは徳島線で石井へ。石井駅跨線橋はまさかの板張り。よく訪れる旧役場や旧小学校の階段を彷彿とさせます。

 

つづいて鴨島へ。駅の正面の通りの歩道には屋根が付けられ、それにほぼ並行する「銀座通り」にはなんと全蓋式アーケード。商店も割と生き残っており、地域の中心としての矜持を感じます。

 

そして列車は終点の穴吹駅に滑り込みました。駅を出ると正面にはロータリー・国道・そして吉野川しか見えません。穴吹の市街地は少し東側の支流との分岐地点にあります。この河川の分岐点の支流沿いの僅かな平地に集落を作るのがまことに四国山地らしい。

 

私はそちらには向かわず、駅前の長大な歩道橋で吉野川をまたぎ、堤防をひたすら進んでいきます。春の陽気、あまりの遮るもののなさに汗がにじむほどです。

 

そして脇町に到着。穴吹から脇町にバスがあるといいのですが日中の数本しかなく、歩いたほうがよい場合がほとんどです。脇町はうだつの上がる街並みとしてかなり早い段階で「伝統的建造物群」としての観光振興を始め、観光地としての地位を獲得しているように思えます。私が今回訪れた他のどの場所よりも観光客が沢山いらっしゃいました。

 

基本的には吉野川に平行な一本道沿いにうだつをあげた民家が並んでいます。脇町のうだつは袖壁が発展したような一重のタイプで厚みもあり重厚です。(今回は訪れることができなかった)貞光の多重うだつにも興味が湧いてきました。また、建築意匠的な話をすれば、岐阜県美濃市にある「うだつの上がる町並み」にあるような屋根を越すほどのうだつも必見です。

藍やその加工品で賑わった街は現在ではその商業的機能をロードサイドに譲っていますが、現在でも観光客向けの藍染店はいくつか存在して、当時の栄華を今に使えています。修景もかなり徹底されており美しいという印象を受けました。

再び穴吹駅まで歩いて戻り、池田方面の列車に乗り込みます。乗客はほとんどが学生で、完全にローカル線の風情の中、吉野川沿いの集落を結びながら遡上していきます。割と大きな街が多いように見えるのは完全に鉄路と国道が並行しているからでしょうか。

 

佃駅で向かい側に止まっている土讃線普通列車に乗り込み、山を越えます。途中の秘境駅坪尻では親子連れの姿がありました。運転手が前後を行き来しており大変そう。

 

そのまま多度津で乗り換えて丸亀まで。駅から港まで歩くと、振り返ればそこかしこの建物の隙間から丸亀城天守が覗きます。

少しレトロ感のある待合所で速やかに切符を購入してフェリーに乗り込みます。30分少々で塩飽本島の泊港に到着。北海道/本州/四国/九州と架橋されていない有人島に人生で初めての上陸を果たしました。

旅の表象

夕暮れの船着き場は家路を急ぐ人が多く、すぐに港から人気はなくなってしまいました。

 

港から歩いて20分ほど、笠島地区の上にさしかかりました。笠島地区は塩飽水軍の本拠地として栄えた集落で、江戸時代には瀬戸内海の海上交易を支える主任の根拠地として存在感を放っていました。現在では海岸線におおよそ平行なマッチョ通りと、塩飽勤番所方面にまっすぐ抜ける小さな峠へと登っていく東小路沿いに極めて密度の高い街並みが残っています。特にこの2本の通りが交わる辻の雰囲気は、他の伝建ではみられないほどの優れた景観です(全方向に伝統的な家屋があるという点で)。夕方なので地元の方数人とすれ違った程度で、観光客の姿もなく、たいへん静かな中での見学となりました。斜面を緩やかに登る方向には幾筋かの小道があってそれもまた風情がありますが、やはり核心部は資料館あたりの特徴的な意匠をもつ蔵や家屋群でしょう。浜に出れば向こう側には四国の社会を大きく変化させた瀬戸大橋が正面に見えます。昔とヒトやモノの流れが大きく変化した現代、人並みにもその豊かさの指標のうつろいを眺めるものでした。

 

帰りは小さな高速船で丸亀へ。坂出で乗り換えて岡山まで。5日間強にわたる四国滞在はこれでおわりです。これだけ滞在してもまだ見足りないものがあるので四国は深いですね。

最初にも申し上げましたとおりこのまま次の旅行に接続しています。ぜひこれからもお読みいただけると幸いです。

2022四国旅行:5日目ダイジェスト

列をなす水切瓦に、背筋を伸ばす。

 

4日目では高知県西部の中心都市、四万十市中村地区から高知市までの移動の様子をご紹介しました。今回は5日目、高知市から室戸岬を経由して徳島市に至る部分の様子をお伝えします。



土佐東街道は現在は国道55号に継承されている枠組みですが、鉄道の整備がなかなか進まなかった地域でもあり、現在でも奈半利ー室戸ー甲浦の間で大変長いバス移動を挟むこととなり、四国一周の一つの難所ともなっています(室戸市の市街地までは想像されているよりは遥かに利便性が高いですが、殊に室戸世界ジオパークセンターから甲浦まで、そしてその先の牟岐線南部が本数が少なくなっています)。

 

まず早朝の高知市から。以前訪れた高知城を外から。これよりも近くから観察することはできませんでしたが、数年前には本丸御殿と天守閣がセットで江戸時代の空気を残していることに感動したものです。



その後は、高知駅から後免駅へ、そして土佐くろしお鉄道に乗り換えて香南市の赤岡地区へ。土佐東街道沿いの集落によく見られる水切り瓦の商家がまばらに残り、またまちなみを見ているだけではよくわかりませんが、絵金と呼ばれる芸術作品が各家に存在しているようです。

 

つづいてあかおか駅から安芸駅へ。

途中で有名な手結港の可動橋も観察できました。

 

安芸駅併設の道の駅で自転車を借りて、北側にある土居地区へ。佐川が高知県西部へ睨みをきかせるための拠点であったことに対して、土居は高知県東部を広く支配するための拠点で、城(といいつつも「館」というほうがふさわしいか)のまわりにわりと広く武家屋敷の名残を示す土地割や垣根、一部では建築も残されています。それとは直接の関係があるわけではありませんが、現代の土居の入り口にあたる地点にある個人宅の「野良時計」は安芸市の代表的な風景とされており必見です。現在は動作を停止していますが、のどかな風景に洋式の機械時計があるという特徴的な景観は他の場所では見られません。ちょうど菜の花もきれいでした。

 

 




わりと整備はなされているようには思われましたが、観光客の姿はそこまで多くありませんでした。また景観を整える地域の範囲内でも徐々に建築や屋敷地の更新が進んでいるようで、「保存」というもののあり方を再考する時期に来ているようです。

 

駅に戻ると私はバスの時刻を完全に間違えていたことに気づきその手抜かりに驚きましたが、道の駅は充実しており、地元の人も多く購入していたおいしいお弁当にありつくことができました。安芸より先は高知東部交通のエリアで、安芸市から室戸市までの間はバスの本数は1時間〜1時間半に一本程度設定されており、変なローカル線よりもかえって使いやすいです(また後免駅奈半利駅の鉄路も一時間に一本ほどあり、公共交通が適切に維持されていてほんとうに素晴らしい地域です)。長距離路線で、交通量も多い区間なので、定時性だけは少し微妙ですが、それ以外は申し分ない。

 

つづいて数分だけ安田町中心部のまちなみを観察。本当は数十分のつもりでしたが飛んでしまいました。現在の表通りである浜側の道に並行するように趣有る家々や旧医院建築(ここまでたどり着けなかった…)が並びます。



気を取り直して田野町の市街地へ。田野町は四国でもっとも面積が小さい自治体の一つで、高知県東部の自治体の多くが浜沿いの集落ならびにその中心部を貫流する河川の上流域までを管轄している一方で、田野町奈半利町はそうではなく、市街地の割合が相対的に高くなっており、市街地のまちづくりへのインフラ投資が相対的に進んでいる印象を受けます。

 

田野町は古くから雑に言えば「谷口集落」的な栄え方をしており、上流並びに周辺からの物資の集積地で、奈半利川の流域がこの地域では殊に大きいことから中芸地域の中心地として力を持ちました。現在では道路交通の発達により多少の変化はありますが、街を横断するR55沿いには(相対的に)多くの店舗があり、古くからの街道沿いにも立派な建物が並ぶ、かなり規模の大きな町場といった印象です。

特に「岡御殿」は田野の栄えを今に伝える貴重な文化財で、なんとなく雅な空気が漂います。また、街の片隅には田野の繁栄の源泉の一つであった魚梁瀬森林鉄道を越す橋の一つが残ります。信仰の場につながる道をちゃんと立体交差にして、分断しない。地元に寄り添った、丁寧な仕事であるように思います。

道の駅田野駅屋も大変に賑わっていました。そのまま徒歩で奈半利川を越えて奈半利町中心部へ。奈半利町中心部には、水切瓦がよいアクセントになっている蔵造りの民家が数多く残され、一部はその歴史的価値から登録有形文化財となっていますが、その密度は地方の町場にしてはかなり高い部類に入ります(他に高いところといえば茨城県桜川市真壁等が挙げられます)。街を大きく一周するように歩くと、生活になじむ土佐特有の風景と、精巧で豪奢でありながらどこかしらに繊細さをも感じさせるすばらしい建築群に出会いました。ちゃんと案内板や街歩き用のパンフレットもあって良い。こちらにも魚梁瀬森林鉄道の遺構が残っています。

*私有地には立ち入らず撮影しております

 

さらに進み室戸市吉良川町の集落へ。街道沿いには多くの商家建築が残り、煉瓦風の建物まであって豪華な印象を受けます。一本裏路地に入ればそこは石の世界。潮風が吹き付ける厳しい立地条件に比して大変機能的でこぎれいな街だと感じました。重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

 

そして室戸岬まで。表の通りにはなんと大阪ゆきの高速バスが通っていきましたが、青い空に全体に黒っぽい浜や奇岩が並び、波打ち際に出れば、ほのかな潮の香りとともに透き通った海水が足元にやってきます。理想的な春の昼下がりの過ごし方、しばしさわやかな風の中に立ち止まっていました。

 

 

ここからはひたすら移動。まず室戸世界ジオパークセンターまで進み、なんと床が板張りのバス(まだ残っているんですね)に乗って海の駅東洋町へ。もう時間の都合上しまっていて残念。車窓は集落も途切れ、崖ー道ー海 みたいな区間がかなり長くなっています。

 

さらにDMVに乗り換え。高知県側のバスー鉄道切り替え場所でも阿波踊りの音声が流れながら車輪を出します。乗り心地は結構いいですが、車内はマイクロバスサイズなので、大きな荷物を持った人にはなかなか修行かもしれません。途中の駅ではもう使わなくなった気動車が佇んでいました。

阿波海南駅前の和菓子屋で補給をして、そこからは牟岐線気動車で一路北へ。比較的新しく静かな車内で、乗客はみな眠りこけていました。阿南市の富岡だけ少し散歩して、夜でも活気のある街・徳島に降り立ちました。

 

2022四国旅行:4日目ダイジェスト

まちからまちを、つないで走る。



最近以前と比べて相対的には多くの方にご覧いただけるようになってきました。ありがたいことです。この記事ではじめてこのブログを訪れたという方も、ぜひ以前の投稿もお読みください。

 

四国旅行も4日目。この日は一日高知県西部、高岡郡を中心に巡りました。

中村から土佐くろしお鉄道線。すぐに土佐入野で下車し、入野海岸へと歩きました。太平洋らしい雄大な砂浜海岸ははるか遠くまで続き、朝早いにもかかわらず関西方面から多くのサーファーが訪れて賑わいを見せていました。

つづいて土佐佐賀。駅前には「佐賀駅前」というバス停があり、別の街を想起させますが余りバスは来ません。ホームが地元の方の寄り合い場所になっていたのが印象的でした。

更に進んで窪川へ。あまりにも海岸線が険しいことから一度鉄道は内陸の盆地へと避難します。古くから交通の結節点、遍路札所の岩本寺の門前としても栄えたまちなみはかなり歴史を感じさせる一方で、線路をまたぐように建設された公共施設の複合体が、現在までその繁栄が続いていることを象徴しています。すさまじくおしゃれなのでびっくりしました。



ちなみに岩本寺現代アートとのコラボで鮮やかな彩りのある境内でした。先進的で目を喜ばせるような街です。門前すぐのところには和菓子屋があって絶えず客が出入りしています。

 

窪川駅から高知方面は極めて本数が少ない区間です。遠慮なく特急に乗って次の土佐久礼までひとっ飛び。

 

はじめの行程ではそのまま須崎まで進むつもりだったのですが、どうしても降りてみたくなったので、思い切って、重要文化的景観に指定されている中土佐町久礼の街並みを観察してみることにしました。

 


駅舎はこじんまりとして、曜日の問題か無人でした。駅から歩くとすぐに市街地の端になりありがたい。懐かしいスーパーがある昭和の雰囲気が薫る細道を進むと、高知県で最も歴史のある酒蔵である、西岡酒造店があったので見学。中ではグッズや清酒の販売のほか、歴史展示も行われています。

 

つづけて漁港の方へ。ふらふら歩いているだけでも立派な古民家が目に入るのがすばらしい。港に出ると、入り口が狭まった湾にへばりつくようにして進む道、そしてなんといっても深い青色の海。岸壁では漁師の方が談笑しています。

 

目新しい形状の津波避難タワーを登ると、そこにはかなたまで広がる海原と、ダイナミックな海岸線のコントラストの美しさがありました。街を振り返れば、家並みが密集し、その繁栄が伝わってきます。

 

街の中心的な信仰の場であるところの久礼八幡宮は、気持ちの良い社叢を通り抜け、鳥居の奥には海がのぞいています。理想的な風景の一つでしょう。

 

そして忘れてはならないのは久礼大正町市場。高知県でも有数の海産物の名所でカツオやウツボを食することができます。私はカツオ丼を頂きました。完全な生のカツオは鮮度がないと難しいので貴重な体験。とてもおいしかったです。次はウツボにも挑戦したい。くれ天という練り物も美味しいですね。


一通り街を見終えたら須崎へ。途中の安和の海岸は、昔高知を訪れたときにも印象深かった車窓の一つです。

須崎の駅はこざっぱりとしていて、街に出れば2つの曲がり角を越えて商店街が長く続いています。街角にはたまに豪勢な古民家があり、ひとつは須崎市の管理下でギャラリーになっています。

 

須崎の街は高知高陵交通のエリア。まちなかから小さなバスに乗って、檮原を目指します。結構車内は混雑していましたが、多くの方が津野町内で降車されてしまい、檮原につく頃にはガラガラに。

 

檮原は古くから集落が営まれた地でそれなりの規模の集落であり続けましたが、厳しい自然環境のなかその維持には幾多の苦労が積み重ねられてきました。夏になれば土砂崩れ、冬になれば大雪で何度も孤立するなどしましたが、近代のインフラが到達して、そこから自然との調和の取れた街並みの形成に重点を置くようになりました。

 

中心部の通りは、山村とは思えないほどに整理され広々としています。また、街の中には隈研吾の建築が点在しており、いずれも木材を内装・外装ともに多用したデザインの中で、実用性にも優れており好印象です。図書館はいっぱしの都会のものよりも賑わっていてかつ陳列方法もわかりやすく整備されていて、村の老若男女の寄り合いの場所としてすっかり定着しています。

 

帰りは須崎の高陵交通本社まで。檮原の案内所からひたすら乗客は私だけでした。本社のすぐ裏の海が美しくてしばらく佇んでいました。こういう何気ない1ページを大切にしていきたい。こういうものの記録がブログの真髄であるべきです。

 

須崎駅からは生活感のある普通列車で佐川へ。すっかり夕暮れになってしまいました。

 

今では桜で有名な佐川は、高知県西部方面の土佐藩の拠点の一つとして栄えました。そのため、藩校も置かれた文教都市であり、また司牡丹酒造のある酒蔵の街としても知られており、駅からもほど近いその中心部にはかなり趣深い街並みが残されています。夕暮れ時、偶然桜まつりのための提灯が街並みと、山に登っていく道に沿ってつけられていてその特別感を増しています。穏やかな夜の訪れにはしゃぐ子供を見ながら、自らの幼少期をしばし回顧しました。さくらまつり ではなくて 酒まつり と書いているのも花より団子的な表現でおしゃれだと思いました。

そのあとは伊野で少しだけ路面電車を観察。高知の路面電車の郊外部はとくに車両交通との分別がなされていない古めかしいタイプの軌道が見られると聞きます。このあたりは広いので問題なさそうですが、どちらにとってもおそらくヒヤヒヤする道が多いのではないでしょうか。

特急で高知まで進み、須崎名物の鍋焼きラーメンをなぜか高知市で食べて、土佐西部の散策はおしまい。続いて、土佐東街道沿いに進みます。

 

2022四国旅行:3日目ダイジェスト

一足早く来たような嵐に、身を任せて。



前回のつづき。今回は旅程に時刻の情報を書いていませんが、これは今回の旅程の各所で現在までの間に大きなダイヤ改正や改組があるなどして記載するのが余り意味のない状態になってしまっているからです。四国は人口の割には地方のバス路線が頑張っている地域なので、どのような運営方法であれ、末永く残ってほしい…

 

 

旅程の三日目は愛媛県の御荘平城から。朝早くに出るバスを逃すと数時間に渡って旧西海町の中泊方面に向かうバスが来ないのでわざわざここに宿泊したのでした。

 

雨の中早朝のバスに乗車。乗客はほとんどいませんが、国道を越えるとすぐに山がちな半島の脊梁に向かいぐんぐん登っていきます。



しばらくすると小さな中心集落に至りますが、バスは再び山を登りかえして半島の反対側の海岸に出て、中泊の細路地を軒先に擦りそうになりながら通過すると、終点の外泊集落に至ります。

 

外泊集落の歴史は、隣の中泊集落の人口が飽和したため、次男坊や三男坊を新しい集落を開墾して移住させようというアイディアから始まりました。しかし険しい宇和海のそのまま海に落ち込むような半島郡にはそう簡単にまとまった数の人間が移住できるスペースなどありませんでした。そしてついに中泊集落から小さな尾根を一つまたいだところの斜面に、マチュピチュとも形容されるような立派な石垣を何段にも築き、下から十数段を居住スペースとして、それより上は畑として利用することにしました。その石垣の積み方の品質は素晴らしく、現在に至るまで致命的な破損はなく集落の景観を印象づけており、その各段を縦横無尽に結ぶ細い路地の階段群も、雨の日は滑りやすく大変でしたが生活の風景としてはすばらしいものです。



宇和海の漁村の中では比較的外洋に直接面している向きと位置にある外泊は、否応なく台風などによる暴風雨にさらされ続けることとなります。厳しい気候を凌ぐため、石垣はあえて家の屋根の高さ程度まで積み増しされており、それでも漁民として海況を伺うために、石垣には小さな窓を開けてあったようですが、いまその高さまでの石垣が残っている家は少なく、明確なものは多くは見られませんでした。また、上の方に行くと住居が取り壊しになっている区画もあり、2022年初頭に起きた豊後水道での地震の影響も受けて損壊している部分もあります。また、集落の裏側のかつて稜線近くまで立派な石垣の段々畑が続いていたとされる部分も多くが森林へと還っています。様々なものが徐々に縮退していく世の中ですが、この風景が後世へと残ることを切に願います。

 

そのまま一度御荘まで戻り、市街地にある観自在寺へ。四国遍路の裏関所と呼ばれる、一番札所から最も遠いこの札所は、大雨の中、なんとなく南国らしい雰囲気を醸し出していました。ご朱印をいただき、参道の入口にある郵便局に訪れて風景印を回収。すぐにバスに乗り込みます。



城辺営業所でほのぼのした乗務員交代を見届けて、宿毛へ。季節外れの大雨で屋根の下から一歩も動けません。

 


ここから高知西南交通のエリアへ。とりあえず大月の道の駅に向かいます。雨は一層強くなり、バス停から売店までの道すがらだけでずぶ濡れになってしまいます。ちょうど昼時になったので、売店にあったかます寿司とブリアラの唐揚げで昼飯としました。かます寿司は柑橘系の酢が使われていて想定外に甘く、身に沁みます。頭までついていてびっくり。アラの唐揚げは自明に美味しい。



さらに進みますが、次のバスは清水の市街地まで。30分ほど時間があったのでプラザパルのまわりを散歩しました。人口1万と少しの街としては商業施設はしっかりしているという印象を受けましたが、周りの都市からかなり隔絶されているのが原因でしょうか。



窪津周りのバスがやってきたので、足摺岬で大浜周りのバスに乗り継いで足摺半島を一周することにしました。窪津周りのバスには多くの地元住民が乗っていて、途中にいくつかある集落で頻繁な下車があり、元気で実用性のある公共交通という感じでした。数十分で足摺岬に到着。ついた瞬間に暴風雨で逃げ込んだ土産物店から一歩も動けません。

 

十数分待つと、嘘のように雨が上がったので38番札所の金剛福寺へ。厳しい自然環境故か建物はむしろ新しい印象を受けましたが、境内は独自の世界観で美しく統一されており、好印象です。


ご朱印を頂きました。

 

つづいて足摺岬灯台が見える展望台へ。願わくば晴れていてほしかったですが、断崖の下に打ち付ける荒波と、深さの知れぬ青い淵が、この場所の最果て感をもり立てます。景色がよくのんびり眺めていたので郵便局までは進まず。



帰りは大浜周りとしましたが、ルート設定が玄人的で、現在快適な二車線道路が供用されているにもかかわらず、フリー乗降区間をなるべく集落内に設定するため、ひたすらギリギリ一車線の旧道を縫うように走行します。左は切り立った崖から海へ、右は切り立った崖から半島の稜線へ、へばりつくように広がる集落の細道や林のトラバースをひたすら進んでいき、乗客ですら心配になるほどです。

 

そのままバスを乗り続けて、清水の市街地を一往復半してから中村へ。途中で見えた海岸が凄まじく美しく、高知県の本気を見せつけられました。

清水から中村も大変長い。路線バスに(足摺からだと)2時間以上揺られることになりますが、こういう路線もなかなか少ないでしょう。直接中村の市街地(市役所あたり)まで。幡多地方の首府として栄えた中村は、度重なる地震や台風に傷つけられますが毎度復興。歴史的な建築はあまり見受けられませんでしたが、今でも人通りがあって、店の世代交代も進む全蓋式のアーケードもあります。かわいいたぬきケーキもあってチャーミング。スーパーや物産館も人口の割にはかなり充実しており、商圏の広さを感じさせます。

 

この日はスーパーの土佐寿司を食べて、中村で宿泊しました。幡多地域を車なしで旅するというのは一見無謀な試みですが、意外といけるものです。

2022四国旅行:2日目ダイジェスト

心の故郷南予へ、再び。

 

愛媛県南予といえば、もう数年前になりますが、中学生の頃、初めて友人と宿泊を伴う旅行をした時に通った地域です。春の長閑な陽の下ゆったりと走る一両の気動車は私たちを城下町宇和島へと運び、そのあと山を駆ける特急や文化の蓄積が目を見張るまち大洲や、海辺を走るのんびりした時間を楽しんだのでした。今回は前回見ることが出来なかった街へ、その優れを体感する旅です。

松山で起床したのちすぐに出発する心算だったのですが、なんだか城を見ずには去ることはできまいという気持ちになったので、とりあえず徒歩で松山城天守のすぐ下まで。振り返れば、青空のもと、海まで広く栄える松山の街。高く太く聳える石垣と櫓群の対比が大変美しく、何度でも見たい景色の一つです。

 

急いで山を下り駅へ入ると、宇和海は温かな空気を纏って出発の準備をしていました。

 

気がつけば内子へ。とりあえず中心部へ歩きます。初めは平成的と感じられる道すがらも徐々に歴史の味を増して昭和風に。銀行のある四つ角を曲がると、突然明治時代にスリップします。



 

登り切るとクランクがあって、大袈裟でもなく夢にまで見た八日市護国の街並みが目の前に広がります。朝早く、人通りはまばら。クリームイエローによって重厚でありながらも重苦しくないように統一された家並みに、鏝絵や海鼠壁の技が光る豪邸、目の前の格子も大変美しいところです。初めは街道筋として、木蝋の生産で栄えた内子ですが、大正時代末期になると木蝋産業はパラフィンに押され急激に衰微し、それ以降は周辺の物資の集積地として栄えました。その直前に建てられた家並みがタイムカプセルのように残っています。中でも本芳我家住宅は六角形の海鼠壁と成功な鏝絵、そして黄色の蔵と、内子の全ての要素を詰め込んだすばらしい建物です。



初めに駅から見て一番奥の方の上芳我家住宅へ。現在は内子町の施設となり展示施設として公開されています。

 

外から見て正味3階建近い巨大な屋敷からは並外れた財力を感じますが、実は途中で計画は縮小され居住スペースは1階だけ。3階に相当する部分には巨大な梁が縦横無尽に張り巡らされています。

ただし一階部分の部屋の景観はほんとうに繊細な表現も多く素晴らしい。

1階の中庭を囲む部分は現存する建物では大変珍しい唐様の部分で、どことなくエキゾチックな雰囲気を醸し出します。裏に回ると大きな木蝋についての博物館もあり、じっくりと見て回ることができます。

 

街並みはタイムカプセルとはいえどもまだ民間所有で手入れがきちんとされている屋敷も多く、お洒落なパン屋や食事処もあります。松山にお越しの際もぜひ少し足を伸ばしてここまできてほしい、そんなところです。

駅に帰る途中でこちらも重要文化財になった内子座へ。劇場建築はあまり馴染みがなかったのですが、街の寄り合い場所としての機能の強さを感じました。

 

続いて西予市の宇和地区、卯之町の街並みへ。駅前に新しくできた複合施設には土産屋とレストランがあり、昼を食べそびれずに済みました。

 

街並み自体はそこまで長くはないですが、妻入が目立つ点と、すぐ横に明治期の代表的な学校建築の一つである開明学校があるのがチャームポイントでしょうか。コンパクトですが満足感のある街並みです。観光客は実はそれなりにいて、わりかし栄えているという印象でした。愛媛県立の博物館までは近いようで遠いのでたどり着けなかった。

 

続いて宇和島駅で乗り換え。三浦半島の海岸線を舐めまわすようなバスに乗って遊子水荷浦の段畑へ。

 

 

正直言葉を失いました。通常開墾されないような漁村の裏山の超急斜面が、何食わぬ顔で全部石垣で固められています。

農道を歩いて登っていくとまたもう一つ驚きが。一つ一つの畑は本当に狭く、石垣の高さより狭いほど。それぞれの畑を行き来するためにはなんとはしごが用いられ、愛媛県の傾斜地ではよくある”みかんモノレール”がみかんの運搬以外の用途でも使われているようです。段畑の上の方からの眺めは、空を覆う雲の下、それなりの高さの山に三方を囲まれた穏やかな海に漁船だけが軌跡をつくっている、どこか郷愁を誘うようなものでした。こういう漁村にも人々の営みがあって、バスも来るというのはほんとうにかけがえのないことです。

全力で自然や地形に立ち向かっているはずなのに、なんと穏やかに見える景色だろうか。

 

LIBRAさんのプリンでおやつ

そのあと三浦半島の付け根まで戻り、宇和島から宿毛を結ぶ幹線バス系統に乗り換え。(下の写真のバスではなく、城辺ゆきのバス。)

入り口に書かれる、「出口」

夜も遅くなってきたので愛南町の御荘平城で宿泊しました。どこか懐かしいガラス戸の入り口は、車が通るたびにわずかなきしみ声をあげてその生を全うしていました。

 

 

 

 

 

 

2022四国旅行:1日目ダイジェスト

ゆったりと、海をゆく。

お久しぶりです。今回は気候の良い頃に旅した四国の風景をお伝えしていきます。

 

 

 

毎度の岡山駅から。改札を通る時の今から旅が始まるという高揚感は何にも変えがたいですね。

 

四国旅行とはいいつつも何故か山陽線を進んでゆきます。大量の客を積んでもっさりと走るサンライナーの車両は、昭和の空気の缶詰に入ったかのようでした。

 

目指したのは尾道。海運や造船で栄えた坂の街ですが、その文化の集積度合いも山陽地方では随一。坂の町を1時間半だけさらりと見学。

 

尾道駅を降りると長いそれなりに店の残るアーケードがあって、それを抜け切ったあたりから山に登っていきます。車が入りようもない裏路地や階段を抜けて、西國寺に辿りつきました。尾道の中では割と海から離れた場所にある寺院ですが、標高はかなり上なので眺めは上々。人もここまで来ると少なく、絶景に似合う古建築を独り占めです。



続いて坂を下り、路地の突き当たりにひっそりと佇む西鄕寺に立ち寄って目的地の浄土寺に至ります。浄土寺鎌倉時代からの朱色の堂宇が一列に並び、その横に格式高い庫裡や庭園を配します。本堂の内部や庭園も安く見学できすばらしい。青空と建築の対比で濃い数十分を過ごせます。

 


その後路線バスで向島を通り因島へ。土生港ではさまざまな船や車がゆったりと行き来しているのが見えます。メインは対岸の愛媛県上島町の立石との間を結ぶ超短距離フェリー。架橋したくなる近さです。

 

 

こちらは3月の岩城橋開通で廃止された長江フェリー。岩城港ゆきの高速船も廃止になりました。もともとインターネットに時刻表のないバスが循環しているだけだった岩城島にも、生名島方面からの交通が確保された一方、普段買い回りで土生を利用していた方も居られてさまざまな受け止めがあるようです。

 

私はここから芸予汽船の高速船で今治に向かいました。上島町の各島と外界を結ぶ貴重な公共交通機関であると同時に、しまなみ海道の道自体からは外れた友浦などの集落にも寄港して人々の生活を支えています。驚いたのは各港でかなり人が入れ替わること。土生から上島町に帰る人、生名島から離島に帰る人、造船所の通勤客など、本当に海の上を滑るバスと言った風情です。

生名島 弓削港

進む

暮れる

来島



潮の流れを横切る来島海峡の横では結構揺れましたが無事に今治港に到着。ちょうどやってきた路線バスに乗り込み今治駅へ。愛媛県第二の都市の意地を感じる立派な街並みを車窓から眺めました。

 

今治からは暗闇を走る普通列車で松山へ。ご当地メニューを融合させた最強のカレーで補給をしたのち、路面電車で繁華街に向かい宿泊しました。夜でも賑わうまちに、あかりが戻って来たことの喜びと、何か自分が取り残されているような一抹の不安を覚えるのでした。

 

2021丹後若狭旅行:2日目ダイジェスト

さわやかな日差し、青と緑と樹木色のコントラスト。今回は文章少なめ、写真多めです。

 

行程: 東舞鶴市街地→(R27)→ UMIKARA(高浜町)→(R27)→うみんぴあ大飯(おおい町)→(R27)→小浜市街地→(R27,R303)→熊川宿→ (R303) →木之本(長浜市

前回からだいぶ投稿の間隔が開いてしまいましたが、簡潔に言えば旅行や生活をしていました。

それはともかくとして丹後若狭旅行の2日目。主に若狭地方の話です。

とりあえずホテルで朝食をとって、東舞鶴の市街地を散歩。東舞鶴はもともと漁村だった西舞鶴とは異なり軍事的な側面から街の基盤ができたこともあり、中心部は綺麗な碁盤の目になっており、アーケードや片持ちも多くありますが、人口減少や中心性の喪失に伴う寂れかたにはやはり一抹の淋しさが漂います(休日の朝だったというのもあるかもしれませんが)。

海の京都特有の看板

そこに生活はあるか

立派ですね


赤レンガ倉庫は重要文化財。内部は文化施設や土産物屋に改装されているところもありますが、立ち入り禁止で補修が追いついていない棟もあって、文化財保護の大変さを感じさせます。なんにせよ青空に映える。美しい艦艇もありましたが安易には投稿しないことにします。

穏やか

たくさんある

続いて車に戻って県境を越え、福井県高浜町へ。原発で栄えていることで有名ですが、もとからあった小さな漁港には新しい商業施設ができ賑わいが創出されていました。街道筋も古い建物がなかなかたくさん残っています。

リゾート感

洋風建築は人生に欠かせないと思う

続いておおい町の道の駅うみんぴあ大飯へ。科学館などと同じ街区にあるまとまった観光施設ですが、えらく混雑していたのでざっと見てスルーしてしまいました。こちらも潤沢な資金を感じさせる施設の作られかたをしています。(写真すら残っていなかった)

そのままR27を東進。小浜市の中心街の観光施設、旭座の横にあるまちの駅に入り情報収集をしたのち小浜西組重要伝統的建造物群保存地区へと向かいます。

駐車場の前の通りも建物は新しいながらも電線の地中化や修景が統一的に行われておりかなり視覚を喜ばせます。

観光地としてのつくりかたが上手

重伝建の指定範囲自体はかなり広大なのですが、はじめのうちは古い建物は数多くありますが「まちなんでいる」とまでは言えず、登録有形文化財の旧医院などが散在しているという感じです。しかし現在の市街地からみて一番奥になる三丁町に、まさに三丁分のすてきな小路が残り、繁栄の歴史を今に伝えています。

 

生活がある

夏空とのコントラストがいいですね

続いて車に戻り、若狭彦神社/若狭姫神社へ。独特の作りの社殿配置に文化を、巨樹に信仰の歴史を感じます。若狭エリアは狭いながらも古社寺の残存状況がとてもよく、小浜市を中心に周遊型の観光が可能になっています。

若狭彦神社

大樹

続いて福井県唯一の国宝の建造物である西明寺へ。鎌倉時代から室町時代に整備された堂宇の一部、本堂と三重塔が今でも残ります。古色そのままの本堂の内部では、鎌倉時代仏教建築特有の格天井が観察でき、また仏像群の配置も壮観です、また脇の棚には、若狭地方の社寺で綿々と受け継がれてきた祈願札が保管されており、人々の信仰の歴史を伝える重要文化財となっています。三重塔には青紅葉が映えていました。秋に来るとすごいんじゃないだろうか。

西明寺本堂(国宝)

西明寺三重塔(国宝)

さらに車を進め若狭町(旧上中町)の熊川宿重要伝統的建造物群保存地区へ。店を畳むのがかなり早いようで15:30頃には道の駅以外のほとんどの店が閉店準備をしていました。通りから人が少なくなったその瞬間を捉えればそこは江戸時代のタイムカプセルそのものです。江戸時代はもっと人通りがあったかもしれませんが。やや農家っぽい建て方の上流側から、完全な町家の下流側への遷移が面白いですね。心が充電されることから、人呼んで🔌。

 

🔌(中央部)

🔌(上流部)

🔌(下流部)

そのあとは東海/近畿から若狭への最短経路の一つたるR303で滋賀県へ。琵琶湖の北岸を走行して木之本へ到着し、そのまま帰宅しました。

爽やかな夏を日本海側で過ごしてみるのもとてもよいのではないか、という感じです。リゾートの中で歴史を感じられる地域、みなさんもいかがですか。

 

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。