埴輪はどこかへ

楽しさも、憂いも、全て旅の中にある。

沖縄:公共交通で巡る歴史とグルメの旅[1日目]

古都と県都の賑わい。

 

[前置き]

お久しぶりです。今回の記事から数えて3~4回に分けて、沖縄を公共交通機関で旅行してきたという話をしたいと思っています。

今までの私の記事を見ていただくとわかるように、私はかなり一人で旅に出ることが多く、そうするとレンタカーというのは機動性に富むという利点よりも、交通費が凄まじく高くなるという欠点、更には単行運転には当然大きなリスクが伴うという欠点が大きくのしかかってくるわけです。

そして一般的に北海道の大部分や沖縄では、旅行者はレンタカーを使用することが前提となっているような節があり、そうなると一人旅を好む筆者としてはしばらくの間この2つの地方は行き先の検討から外れてしまっていたのです(あまりにも非効率であるように感じたからです)[実際にここに掲載している記事では北海道江差町から鹿児島県南さつま市に旅程が収まっていた事がわかると思います]。

しかしとうとうそのパンドラの箱を開ける必要に迫られることになりました。この数年間で沖縄以外のすべての都道府県に足を踏み入れたことになったからです。残りが沖縄だけだったわけです。

北海道の郡部はあまりにも都市間が離れており人口も希薄であることから公共交通がこれ以上発達しないというのは受け入れざるを得ないことですが、沖縄は全体にかなり郡部にかけても濃密な市街地が形成されています。そして調べてみると、都市間で網状に路線バスの系統が発達していることで、むしろ鉄道を起点としたような本州の交通よりも縦横無尽に動けてしまうのではないかという考えに至ったわけです。

 

さて実行するかと思ったわけですが、その前にやることが2つあります。計画性のない私ですが(例の丸一日かかる船を除けば)飛行機に乗らなければ沖縄にたどり着けません。これは速やかに突破されました。

そして沖縄にはバスしかないかといえば、モノレールがあります。これに乗ってその周りを観察することが先決かと考えたので、1日目は基本的にゆいレール沿いの名所を巡ったという内容になります。

 

[本編]

儀式

 


那覇空港からおはようございます。ブログ上ではつつがなく到着したことにしておきましょう。

 

訪れたときは沖縄の公共交通が安くなる施策が行われていたので、沖縄県外の住民であることを示してゆいレールの1日券を安く入手。早速乗り込みます。混んでいて写真はありませんが、建物の密集の仕方がすごいし、それはともかく発車メロディが美しい。

 

とりあえず私は歴史的な名所を抑えることを先決としているので、琉球王国の古都である首里地区に向かいました。お腹が空いていたので予定していた昼食処の最寄りである儀保駅で下車。偶然ながらプラットフォーム自体が素晴らしい展望台になっていて、密集した市街地の向こう側に海を望みます。

 

地図で見るより起伏の激しい土地(この後洗礼を浴びます)を通って、琉球料理定食のランチを提供する「富久屋」を訪れました。古民家の店内は座敷になっており、琉球料理の伝統的な汁物をメインとして、小鉢がたくさんついた定食はとても美味しかった。内地とは味付けのセンスが異なるけれども、ひとつの完成された取り合わせであると感じます。一人で来ると沢山の種類のおかずを食べる機会はそうそうないので貴重な経験でした。

近くのものを撮るのが下手でごめんなさい 全て美味しいです

 

2月なのに暑くてたまらなかったのでBLUE SEALのアイスも摂取。内側から沖縄に染まっていきます。

天女橋

そして首里城へ。儀保駅側から進んでいくと先に重要文化財天女橋円覚寺放生橋を見学して、そのあと首里城の聳え立つ石垣に対峙することになります。今まで基本的に本州の中世から近世の城郭ばかり見てきたのでその曲線的に美しさには驚きました。

首里城は最近の衝撃的な火災によって戦後復興された部分の多くも消失してしまいましたが、現在再建に向けた木材の乾燥など準備が着々と進んでおり、また沖縄のシンボルが誇り高く首里の町に聳えることを期待しています。建物がなくても眺めは素晴らしいです。

世界遺産園比屋武御嶽石門を見学しつつ守礼門に進むとなんと工事中でした。今度美しくなった姿でお会いしましょう。

園比屋武御嶽石門

続いて首里金城町の石畳道へ。日本の道100選になっています。石畳の道が谷底に転げ落ちんとするばかりに階段と斜面を交えながら続いています。建物はほとんど建て替わっていますが石垣まで一体的に保存されていることに好感を持ちました。草取りを丁寧にしている方もいらっしゃって道はピカピカです。

帰りは現代的(?)な階段のある小路をどんどん上がっていきました。都市のど真ん中にあっていい勾配ではなく、汗だくです。

ハァハァハァ

続いて世界遺産の玉陵へ。休日の昼下がりなのにほとんど観光客の姿はありません。小さな資料館が併設されており、どこに誰がどのような形で葬られているのかという誰しもが気になる事項について一通り説明があります。沖縄唯一の建造物としての国宝なのでじっくり見学しました。あまりにもひとけがないですが、むしろ荘厳さを際立たせているともいえるでしょう。

 

長袖では暑すぎて耐えられなくなったので、首里高校横のぜんざい屋に駆け込みました。なんとこれで250円。しっかり練乳がかかったかき氷の下側にはたくさんの小豆。満足です。

 

儀保駅まで戻り、続いて安里駅で下車。壺屋やちむん通りの裏道に入ると重要文化財の新垣家住宅があります。住宅部分は現住なので見学できませんが、保存整備された登り窯を見学することができます(開館日が少ないので注意)。こんなに住宅が建て込んでいるところで高度経済成長期まで登り窯による焼成が行われていたというのは驚くべき真実です。そのまま近くにあった壺屋焼物博物館も見学していきました。うちなーぐちによる解説ビデオがよかった。

続いて赤嶺駅へ。重要文化財の伊江御殿墓を見に行きましたが門が閉まっていて奥に亀甲墓を望むだけで終わってしまいました。まあお墓ですからそんなに部外者に入られても困るでしょう。

柵の外から撮影しております

さらに北上してモノレールの終点のてだこ浦西駅へ。まだ周辺は開発途上といった感じで、交通の結節点としての今後の発展に期待です。まともな写真がもうクラウドに残っていなかった。

 

帰りは少しおもろまちを散歩してから県庁前駅の横の商業施設「パレットくもじ」のテナントのひとつである那覇市立博物館へ。地味に国宝とか重要文化財の書画や美術品が置いてあります。

 

夜ご飯は食べログ定食百名店にも選出されたことがある評判の食堂「みかど」で。ふーちきなー定食を注文。名前からは内容が推し量れませんが、麩とからし菜とスパムとツナの炒めもので食感も楽しく味も抜群です。そして安い(2023/2現在で¥750)でした。

主菜の輝き

明朝は早いので即投宿。翌日からバス乗り継ぎ旅が始まります。

路線バスで巡る佐渡のしまたび[後編]

変わりゆくもの、変わらないもの。人間の自然との向き合い方。

 

前編では1日目、両津、新穂、畑野、小木の各地区の訪問をレポートしましたが、続いて後編では2日目、羽茂、赤泊、真野、佐和田、相川の各地区の訪問についてです。前編を見ていない方はそちらもぜひお読みください(一つ前のエントリーです)。

佐渡市小木地区から一日をはじめます。

新潟交通佐渡 小木線(佐和田方面) 小木→羽茂高校前

佐和田へ走り去っていきました

朝7時前ですが時間の直前になると高校生がわらわらとバス停に集まってきて、ほぼ満席でのスタートです。高校前なのに誰も高校生が降りなかった。

羽茂本郷は現在は南佐渡地域の商業の中心とも言える地区で、小木市街地の徒歩圏内にないコンビニやドラッグストアが存在します。南佐渡地域では貴重な平坦地であるためさまざまな平地が必要なものが集まってきています。バスの営業所も羽茂本郷にあるので、一つの結節点になっています。

新潟交通佐渡 前浜線(筵場ゆき)

羽茂高校前→赤泊中学前

今ではもう珍しい、床が板張りのバス

これは乗るのが極めて難しい系統です。珍しい座席配置のバスでした。そもそも大きな街を通らないので誰も乗っていませんでした。

 

赤泊は古くは本土との行き来の港として栄え、近年まで寺泊ー赤泊のフェリーが就航しており一つのターミナルになっていましたが現在では静かな漁村という趣です。しかし有名な酒蔵や望楼型建築の民家など面白いものがありました。すれ違う小学生や中学生が全員挨拶してきてびっくりしました。

 

新潟交通佐渡 赤泊線(佐和田方面) 赤泊→新町本町(真野地区)

 

上川茂地区から田中角栄の功績として伝わる川茂峠の車道開削区間を通って真野に下るバスです。1日3本ぐらいしかないのに座席が全て埋まるぐらいまで乗っていてびっくり。混みすぎて車窓の写真撮れないなとうつらうつらしていたら真野についていました。

真野は国道沿いにスーパーや郵便局、たまに歴史ある民家が連なったよく整備された街並みです。

 

新潟交通佐渡 小木線(佐和田方面) 新町本町→河原田諏訪町

 

再び小木線に乗り佐和田へ。途中の八幡新町のあたりは道にぎっしりと面してかなり整った街並みでした。佐和田地区の浜辺には写真映えしそうな桟橋がありました。中心部には雁木があり、またバスターミナルには伊勢丹の出先があります。これは驚いた。

洋菓子屋でスイートポテトを買ったらコーヒーをつけていただきました。ありがたい。

 

(11)新潟交通佐渡 本線(佐渡金山ゆき) 佐和田BS→佐渡金山

 

やっと本線の登場です。平日は佐渡金山まで行く便が少ないのでこの時間に合わせてここまでの街歩きの時間が調整されています。

太夫

道遊坑

佐渡まで来て金山を見ないわけにはいかないので宗太夫坑と道遊坑の両方ともを見学。宗太夫坑は少し懐かしい観光施設といった趣ですが、必要な説明は一通り書いてあるといった感じですね。一方で道遊坑は坑道内部はかなり当時の趣そのままといった感じで、大変湿度も高く、採掘されたままの岩肌や坑道地面に埋め込まれたままのトロッコのレールなどが当時の面影を伝えます。坑道を出ると重要文化財の機械工場の建物があり、旋盤などが展示されています。その広場からは佐渡金山の代表的な景観である道遊の割戸を眺めることができます。山の峰がぱっくりと割れたような異様な景観は日本の他の場所では見られず、人工的な営為の規模を超えた壮大な景観です。少し登っていくと更に近くで割れ目を眺めることができますが大きすぎてよくわからなくなります。広場の下側にあるという高任地区の重要文化財群は近くまでたどり着けずよくわかりませんでした。

(12) 徒歩 佐渡金山→相川

とうとう本行程初の、30分以上の歩行をせざるを得なくなりました。平日は本線の佐渡金山までの延長運転が極めて少ないため、ほとんどの時間帯で徒歩で相川の街まで下るのが最適解になります。本当は旧相川拘置支所の筋に出たかったのですが、地図上では近いようで凄まじい高低差がありなかなかそちらの道に出ることができません。事前調査不足で坂の上の方の街並みは十分に観察できなかったため、相川には再び訪れたいところです。遠くに大海原を見遣る稜線に僅かな屈曲を持って伸びる街並みはなかなか優れた景観であると感じました。

下山のルートを東寄りにとって、北沢浮遊選鉱場に寄り道。佐渡の写真といえばここというスポットの一つですね。よくこの規模の構造物が崩れずに残っているものです。一周回って古代遺跡かのような風格があります。近くの資料館はよさそうな近代建築でしたが改修中で休館していました。

下からのアングルは記事の冒頭に掲載しています

海岸に並行して伸びる山裾のほうの街並みを東の端から歩くと。そこかしこに旧家の案内板がついており歩きがいのある街並み。たまに近代建築もあります。ちょうどお昼時だったので、回らない寿司屋で昼食としました。今まで学生の身分で回らない寿司というのは肩身が狭くほとんど訪れることがなかったのですが、とてもリーズナブルで質の高いお昼ごはんとなりました。

 


街並みの西端のほうには重要文化財の松榮家住宅がありますが内部非公開です。そのまま相川下戸郵便局まで歩いて散歩はおしまいとしました。

 

(13)新潟交通佐渡 外海府線(岩谷口ゆき) 相川→岩谷口

 

相川で少し時間の余裕を持って切り上げておいたのはどうしてもこのバスに乗り遅れたくなかったからです。相川から尖閣湾達者、高千を経由し岩谷口に至る、外海府を爆走する風光明媚な路線です。達者や北狄の集落はかなり大規模な板壁密集型のもので時間に余裕があれば訪れたいところですが残念ながらスルー。乗客も途中までは老若男女いて賑わっていましたが、岩谷口に着く頃には誰もいなくなっていました。平日なので、バスは岩谷口の小さな車庫に入ってひとやすみ。

達者集落(ガラス越しなのでぼやけています)

北狄集落(ガラス越しなのでぼやけています)

岩谷口車庫

相川地区の北東の果て、岩谷口は板壁の民家が並び海岸沿いの僅かな平地で稲作を行う美しい集落でした。

 

(14)徒歩 岩谷口→北鵜島の手前

 

路線バスで佐渡一周を行うにあたって、大体の場所で路線自体は繋がっていないがダイヤが噛み合わないことで苦しむことになりますが、平日に限って言えばこの部分は完全に路線がつながっていないことで同頑張っても歩くしかなくなります。ただ5km程度を2時間ぐらいで歩けばいいということでかなり余裕はあり、Google Maps に言わせてみれば立ち止まらずに行けば大野亀を直接視界に入れられるあたりまで行けるだろうという軽い気持ちで歩きはじめました。この区間は旧相川町と旧両津市の境界にあたり、人家が建つような平地は一切ない断崖絶壁の無人地帯です。車通りも僅少。

跳坂

立ち止まらずに、とは考えてみたものの、初っ端から凄まじい高低差を見せつけられて足が止まってしまいます。跳坂と呼ばれていますが、途中では橋の架替が行われていました(現在は完成したらしい)。橋からは美しい滝が見え、海をバックにすれば重機ですら立派な被写体です。もう少し登ってもと来た方面を見れば海岸、集落、山並みを一望できて素晴らしい眺めです。


ここまででわかるように、立ち止まらずに進むのは勿体ない絶景の連続で全然進みません。

しばらくすると海府大橋が見えてきます。細くて長い橋で少々足がすくみます。真下は斜面がすごすぎてよくわかりません。

 

そうこうしているうちに真更川に到着。簡易郵便局はもう閉まる時間なので到達の証明になりそうなことは一つもできませんが、道沿いにはたっぷりと稲穂をつけた水田、海岸に向かって板壁の大きな家が並んでいて、日本の原風景といった風情です。

 

バスをそのまま待っていてもしょうがないので更に進んでいきます。北鵜島の坂の上にある、佐渡の車田植えのあたりまで進んできました。細い県道沿いに木を組んで刈り取った稲穂を乾燥させています。向こうには大野亀が異様な姿で佇んでいます。夕暮れ時であることも相まって言葉にならない感動を覚えました。農村景観でこんなに感動したのは初めてかもしれません。

車田植えは言われたらもしかしたら丸かったかもしれません。時間がまずかったので車田植えの看板の前で待っていたらバスが停車してくれました(もちろんフリー乗降区間です)。

 

(15)新潟交通佐渡 海府線(両津方面) 真更川/北鵜島 間→夷本町

フェリーの最終便に向けて内海府海岸を駆け抜ける超ロングラン系統です(おそらく43kmぐらいある)。北鵜島の先、大野亀ロッジまでの間は素掘りのトンネルが連続し、ときには波をかぶるであろう恐ろしい隘路で、大型バスで通っていくのが怖いほどですが、車窓からは大野亀の優美な曲線的な姿に見惚れることができます。その先、願の集落にも立ち寄り、集落越しに二ツ亀を眺めることができます。すぐに暗くなってしまって寝ていたら両津のまちなかに着いていました。少し時間に余裕があるので、地場のスーパーやターミナルの売店を見て過ごしました。

 

そしてとうとう佐渡を発つ時が来ました。多くの旅行客を乗せて(バスにはほとんど観光客はいなかったからみなさんレンタカーで旅行されていたのでしょう)真っ暗な海原の中を2時間半駆けて、22:00頃に新潟の街に着きました。

 

35時間ぐらいの滞在で、平成の大合併前の旧市町村のうち、現在佐渡市役所がある金井地区以外のすべての中心部に降り立ち、更に主要な観光スポットのいくつかを抑えることができました。路線バスも2日フリーで2500円、宿も近代的な設備で5000円弱、なかなかいい話だと思っています。

 

次の記事では補足として、東京からの行き帰りの様子をかる~くご紹介する予定です。それでは。

(スターをつけていただけると、筆者が泣いて喜びます、お時間ありましたらぜひ)

路線バスで巡る佐渡のしまたび[前編]

見知らぬ街へ、日常と非日常をつないで。

 

前回の更新がいつだったかも忘れてしまうぐらいブログを放置してしまいましたが、ようやく新しい記事を書くような余裕も生じてきたところで、昨秋の佐渡旅行のまとめでもしておこうかと思います。

世界遺産登録を巡る喧々諤々の議論はさておき、佐渡は離島の中では東京からのアクセスも比較的よく、ふらっと思いつきで訪れられるような時間距離にあります。島内での交通手段はだいたいレンタカーが選択されるだろうとは思いますが、実は主要な観光地は基本的に路線バスで訪れることができます。中心部(国中平野)を離れると本数が僅少な区間もあるので少し時間の拘束はありますが、1/2/3日用のフリーきっぷが格安で販売されていることからも使わない手はないでしょう。今回のレポートをもとにひとりでも多くの方が(車の免許を持っていないとしても)佐渡に興味を持ち訪問していただけることを望んでいます。

バスの接続は2022年9月の平日のものですので、今後変更によりできなくなるものもあるかもしれません。一方でよりよいものになる可能性もあって、例えば近々小木ー直江津のフェリーが復活したら旅程の幅が広がるでしょう。

 

1日目

早朝の新潟市中心部からおはようございます。まだ5時台というのに割と明るくて驚きました。早朝は埠頭ゆきのバスがないので佐渡汽船ターミナルまで30分弱徒歩となります。

朝日に照らされるWhat's Niigata

6:00の両津ゆきフェリーに乗船。まだ朝早いですが船内にはそれなりに人がいます(徒歩乗船もそれなりにいました)。しばらくすると新潟市街地が海の向こうに離れていくのが美しいです。まだ新しい船なので座席やお手洗いもきれいで全体に快適です。

2時間ほどすると佐渡島がはっきりと視認されるようになります。着岸直前に見える大佐渡のそそり立つ峰々がとても美しい。

 

8:30頃には両津に到着です。バスまではしばらく時間があったので、雁木のある商店街を散歩して新潟らしさを摂取しておきます。佐渡の平野部はそこまで積雪が多くなるわけではないと思いますが、両津、佐和田、相川には歩道を覆うような構造物がしっかり用意されています。一本裏手に入ると歓楽街らしきものが見え、佐渡の入口としての風格を感じます。

 

新潟交通佐渡 南線(佐和田方面) 両津局前→トキの森公園

 

両津から国道沿いに金井を通り佐和田へ抜ける本線に対して、新穂地区、畑野地区、真野地区を経由して佐和田に至る路線が南線です。休日は観光のための迂回運行が(特に真野周辺で)かなり激しく行われていますが、トキの森公園への乗り入れは平日でも行われています。

トキの森公園では日本を代表する美しい鳥であるところのトキの生態について学べます。本物に近づくことは案外難しく、もしかしたら田んぼで画角を狙う方が撮りやすいぐらいかもしれませんが、双眼鏡越しにカメラ目線を頂けるまで粘るなどしてかなり楽しかったです。

新潟交通佐渡 南線(佐和田方面)  トキの森公園→畑野西町

 

畑野には評判のいいランチスポットが何箇所かあります。地元の人で賑わうカウンターでボリュームたっぷりの定食を頂きました。

また少し真野方面に歩くと特徴的な洋風建築の旧若林邸が現れます。ピンク色の外壁はなかなかに衝撃的ですが、里に映えを与えています。積極的な保存活動も行われている模様です。

降車場所を真野の少し東側(竹田橋)ぐらいにすると妙宣寺五重塔(重要文化財)や大膳神社に徒歩することができるのでそれも好ましいでしょう。しかし時間の都合上温かいご飯にありつけなくなりかねません。

 

新潟交通佐渡 南線(佐和田方面) 宮川→真野新町

新潟交通佐渡 小木線(小木ゆき) 真野新町→小木

 

真野新町はバスの結節点になっており、南線と小木線が数分の接続になるようなダイヤ設定です。待合室もあります。

小木線はかなりのロングラン系統。途中海岸沿いを通ったり、棚田の向こうに海を眺めやったりする変化のある車窓です。西三川地区、羽茂地区を経由して小木の中心街のターミナルに入ります。

(ガラス越しなのでぼやけています)

小木は訪問時点では直江津からのジェットフォイルしか就航しておらず、佐渡の玄関口としての機能は低下した状態で観光客は僅少でしたが、カーフェリーができればまたもう少し活気が出てくるでしょう。

 

⑤レンタサイクル 南佐渡観光案内所→矢島・経島→宿根木→南佐渡観光案内所

 

小木から西側はバスの本数が少ないので電動アシスト自転車で進みます。普通の自転車では厳しい起伏のある道が続きます。気合いを出せば小木の裏山にある蓮華峰寺までたどり着けるかもしれませんが、比高が100mぐらいあるので行く場合は覚悟がいるかもしれません(行けないことはないでしょうが)。西三川から小木までの国道筋はバスがなくなかなか険しいです。

はじめは矢島でたらい舟に乗ろうと思い自転車で向かいましたが、全て出払っていて乗盥(?)できず。風景や街並みはなかなか良いと思います。

しょうがないので宿根木に直行。ちょうどいいタイミングで乗盥できました。一人で貸し切りもなかなかいいですが、船頭1人乗客3人のたらいは人間がみちみちでなかなかスリリングな見た目。

たらい舟の機動性の高い操船により、ゴツゴツした岩のすぐ近くをすり抜けるように進みます。海水の透明度はなかなか高い。少し沖側には隆起して謎の位置に移動してしまった鼻ぐり岩もあります。15分近く乗って800円というのは体験価値としてはかなりありですね。

 

宿根木はなんといっても重要伝統的建造物群保存地区の街並みを外しては語れないでしょう。新潟県唯一の重伝建ではありますが雰囲気としては北陸側の影響を強く感じるところ(東北から山陰にかけての北前船寄港地/北前船主集落に共通するもの)です。細い路地を形成しながら極めて密集して存在する板壁の民家は、外見は耐候性を重視して極めて質素とは言えますが、内部はその財力を感じさせるものになっています。曜日時期の問題で公開されているのは一軒のみでしたが、内部は意外と広々とした作りに感じました。


有名な画角であるところの三角屋、限られた平面を最大限に活かそうとする強い意志が感じられます。

街並みは現住のものも多く含まれていますが、一部はカフェや民宿に改装されており、そのうちの一軒でお茶としました。

 

集落を発ち坂を登ると宿根木集落を上から展望することができますが、現在では国内では珍しくなった石置屋根の建物が密集しています。文化財としての保存は新潟県関川村の旧渡邊家住宅や山形県鶴岡市の旧風間家住宅、酒田市の鎧屋など北陸〜信越の強風地帯に集中していますが、その数は極めて少ないと言えるでしょう。

小木の農協に寄るも夜ご飯が手配できず、困惑しながらホテルにチェックイン。

 

新潟交通佐渡 宿根木線(江積ゆき) 小木→三ツ屋

 

訪問当時は平日はデマンドだったので数時間前に予約。宿根木から貸切になったのでルートが短縮され(太鼓交流館に寄らず)、定刻より20分ほど早く到着しました。

到着すると万畳敷にちょうど夕日が沈む時間。本来なら極わずかだった滞在時間がかなり伸びたのでいい感じにリフレクションが見れそうなところを探しつつ時間を過ごしました。

新潟交通佐渡 宿根木線(小木港佐渡汽船ゆき) 三ツ屋→小木本町

 

これもデマンド運行ですが帰りは太鼓交流館に寄り道。真っ暗な細い山道を注意深く登っていきます。小木の街並みの中心部、洋館のあたりで降りて、いい感じの街灯がついた通りを歩きますが、誰も歩いていないし開いている店も全然なくて困ってしまいました。雰囲気はさすが北前船の街といったところですが。木造五階建の特徴ある建築は翌朝に見ようかと思ったら寝坊して見そびれてしまいました。

 

宿に帰ると出前の案内が貼ってあり、問い合わせてしばらくするとフロントに銀色の大きな箱が届き、中にカツ重が格納されていました。もちろんおいしくいただきました。

 

無事温かいご飯にありつけたところで前編はおしまい。翌朝の後編に続きます。

2022年山陽山陰地方旅行:4日目[江津/山口市/柳井]ダイジェスト

来たるべき人を待つ。過ぎ去った時代を想う。

 

大変お待たせいたしました。この夏も日本の各地を巡っておりました。今後半年ぐらいかけて徐々に文章にしていきたいと思っております。

 

前回の記事では、2022年山陽山陰地方旅行の3日目として隠岐諸島隠岐の島町を巡り、本土に帰還して浜田市に至るまでの旅程をご紹介しました。今回は4日目(実質的な最終日)。浜田から江津に立ち寄り、そこから山口市柳井市を経由して広島市までの旅程のご紹介です。

 

とりあえず朝早起きできたので浜田駅の南口の周りを散策。浜田の旧来の市街地は浜田駅西浜田駅の沿岸部に広がっており鉄道網からのアクセスはあまり良くありません。その事もあってか駅前には別の商業集積地区があり、坂に沿って石見神楽の大蛇のようにうねるアーケードが見られます。朝早いので人通りはほとんどありませんでしたが、石見地域の中心として十分に風格のある街だと感じました。

 

そのあと江津に一度逆戻り。このあたりのJR線は今春(2022年春)のダイヤ改正で大きく減便されており行程を組むのにも徐々に苦労を要するようになってきました。

 

江津駅からは最近まで三江線が出ていたのは有名な話です。とりあえず三江線の次の駅、江津本町駅の方向に歩いていきます。

 

江津駅前はきれいな行政施設ができて整理され、国道9号線沿いに商店街も残っていて、朝早くからお菓子屋さんが営業していました。

少し歩いていくと山陰本線の橋梁(郷川橋梁、漢字はこれが正しいらしい)が見えてきます。第一次世界大戦中ぐらいに架設されたかなり歴史のある橋で、長い山陰本線の中でも見どころの一つとされている区間です。少し離れたところには山陰地方では珍しいダブルデッキ構造の新江川橋があります。

 

しかし忘れてはならないのはその片隅にある三江線廃線敷です。使われなくなってまだ数年ですが、かなり草木が生い茂っています。さらに進むと橋台のみが残っている跨道橋のようなものがあり時の流れを感じさせます。新しい道路橋と取り壊された鉄道橋のコントラスト。だからといって三江線もそんなに古いわけではありませんが。

その線路があった場所をくぐると江津本町地区に到着です。古くは幕府直轄の天領で、江の川を用いた舟運と日本海の海運の積み出し/積み下ろしで栄えた川湊です。現在は街の中心的機能は江津駅や市役所の周辺のロードサイドに譲っていますが、街並みがタイムカプセル的に残されています。

まずはじめに目に入った通りは昭和的な風情の残る通りで、その沿道にはいくつかの旧行政施設や旧医院などの建物が残りその繁栄を今に伝えています。郵便局もあったので風景印を頂きました。

そしてさらにもう一つ南の通りは、「天領江津本町甍街道」と呼ばれていて観光振興を図っているまちなみです。中心となる建物は全国の現存する郵便局舎のなかでもかなり古い部類に入る旧江津郵便局で、水色のメルヘンチックな外観が街並みのアクセントになっています。全体的には倉吉に似た赤瓦白壁土蔵の落ち着いた街並みです。ほんとうに静かなところですが、イベント時には結構人通りがあるようです。

 

江津駅に戻り、もう一度浜田駅で物資を補給してから、山陰本線を一路西へ。さすがに1両の気動車ではさばききれないほど混雑しています。山陰本線は、海と本当に近いことが旅行者の目を楽しませますが、一方で災害が一度起こったときの復旧の難しさは前回の田儀駅あたりの災害で痛感させられました。穏やかな日は本当にきれいです。

国鉄らしいターミナルの益田駅で、国鉄型の気動車に乗り換えます。本当に旅情の塊という感じで、山口線内は際立った名所はないものの、美しくのどかな里山の車窓がひたすらに流れていきます。窓を開けて、新鮮な空気を取り入れるととても心地よい。

(この辺の写真は、混雑とガラスの映り込みの関係で掲載しておりません)

1両のディーゼルカー山口駅に到着。県庁所在地の駅としては珍しく電化されていませんが、列車が到着すれば多くの人が行き来します。

表の通りを進むとアーケードに差し掛かったのでそちらに移ります。デパートもあってかなり賑わっているという印象です。

どうしても人が入らないように撮るので...

山口市はかつては西の京と呼ばれ、中世には大内氏が居館を構えて文化的にも大変栄えました。現在はその時代の繁栄を、市の中心部に点在する神社や寺院が伝えています。

龍福寺は市街地の中心にあり、本堂が重要文化財。美しく整えられた境内に背筋が伸びます。

ついで今八幡神社に行きましたが、私が行った時点では改修中でした。

少しだけ移動すると八坂神社。古い社殿が結構な密度で残っていてすごいですね。

さらに少し山を登ると、山口市でおそらく一番有名な観光名所であるところの瑠璃光寺五重塔が聳えています。宗教施設としての雰囲気はあまりなく、公園の片隅に建っているという感じにはなっていますが、よいプロポーションの建築で、国宝もさもありなん。しかし、五重塔のみどころというのはなかなか表現するのが難しいですね。組物とかそういうところの勉強をしないといけないのかもしれません。ただ見上げているだけだとふ〜んで終わってしまっていることが多いので。

 

実は山口市にはもう一つ見るべきものがあり、それが県庁の敷地にある旧山口県庁の建物と旧県会議事堂の建物です。どちらもなんと無料で見学可能です。

県会議事堂の建物は内部を博物館として改修してあり、古くの会議場や議長室などの整った設えを偲ぶことができます。一方で旧県庁の建物は少し前まで(県庁としてではないですが)現役で使われていたこともあり、使用感も含めての遺産となっています。ところどころ傷んでいますがこれぞ実用建築といった風情があります。

このあたりは公共交通のかみあわせが微妙に悪いのが難点。速やかに山口駅に向かい、新山口駅でしばらく待って柳井に向かいました。

意外と遠いので、柳井につく頃にはもう日が暮れていました。

柳井の白壁の街並み(古市金屋)は何度も来ることを計画しながら通過してしまっていた場所です(実は防府もそうで、まだ解決されていません)。

夕暮れ時なので商店は一つも開いていませんが、これはこれで風情があるのではないでしょうか。重要文化財の重厚な商家もあります。

この日はそのまま広島まで在来線で進み、宿泊しました。

 

補足:この翌日は、大雨でしたので早めに帰宅しようと思い、早起きして原爆ドームへ。

静かに祈りを捧げました。

帰る途中には、西条の酒蔵群や、社殿が特異な建築様式で、国宝の吉備津神社にも立ち寄りました。様々な人からおすすめを頂いていたところですが、すばらしいですね。

随分と長くなりましたが、これで2022年山陽山陰地方旅行に関する記事は終わりです。速やかに次回作を用意する予定ですので、ぜひ御覧ください。

2022年山陽山陰地方旅行:3日目[隠岐島後]ダイジェスト

海原の中にたゆたう文化の薫り。

 

しばらく更新の間が空いてしまいましたが、前回の記事では米子から境港、七類へと移動して隠岐汽船に乗船。島前の知夫里島と西ノ島に訪問した部分をご紹介しました。今回は山陽山陰地方旅行の3日目、隠岐諸島のうち島後(隠岐の島町)を半周ほどして本土に帰還する様子をお届けします。

 

翌朝、宿でかるく朝食を取って、西郷の港へ。それなりに大きな集落で、行政施設なども集積していますが、朝の街は静かです。正直、大きな街に出るまでに時間がかかることとコンビニがないことを除けば、本土の同程度の人口規模の街よりも便利に暮らせるかもしれません。

移動してまず屋那の船小屋へ。復元されたものではありますが味のある建築です。海の透明度も高く、後ろには本土ではあまり見かけない形の変わった山が聳えています。

隠岐諸島は最近何度も台風による大きな被害を受けています。日本の滝百選にも選ばれている壇鏡の滝(裏側から滝を観察できるらしい)へは道路の補修工事のため到達することができませんでした。再履修が必要ですね。

かわりといってはなんですが那久岬へ。これはダイナミック。島前と同じように「北海道よりも北海道」みたいなものを感じてしまいます(北海道について詳しくないのがバレてしまいますが)。

ついで油井前の洲などを通って、五箇の集落へ。旧五箇村は海を隔てて遠く韓国と向き合うまさにフロンティアの土地の一つですが、集落には穏やかな時間が流れていました。

 

集落の外れには隠岐国の一宮に比定されている水若酢神社があり、隠岐諸島に特有な(神明造と大社造を組み合わせたような)隠岐造の社殿が残されており重要文化財に指定されています。境内は美しく保たれ、新緑の美しさに素朴な茅葺きの社殿が映えて荘厳です。西郷の港からも遠く、到達の困難さからここで一宮めぐりを終える人も多いのだとか。



その横には、もともと西郷にあった旧周吉郡他三郡役場の建物が資料館として保存されています(もともと島前と島後をあわせて4つの郡があったのでこういう名称になっていますが、戦後に合併して隠岐郡となりました)。西郷の港の栄えぶりを今に残す建物です。

ついで、ローソク島展望台につながる道も土砂崩れで通行止めになっていたので久見集落にあるローソク島展望地へ。はるか遠くに目を凝らせばローソク島が見えます。そりゃ本気で見るなら遊覧船で適切な時間に行くのが良いと思います(日程上そして天候上これは叶いませんでしたが…)。ただ遊歩道自体もなかなか荒々しいところにあって面白いです。

さらに北上して隠岐の島町の北端の白島崎へ。先端までちゃんと歩いて行くのは大変ですが、展望台まではほとんど車で到達することができます。展望台からは異質なまでに白い陸地が広がっており、そのうちのいくつかは全方位が切り立った島になっていて、灯台がはるか遠くに見えます。そこまで到達するのは当然徒歩では不可能ですし艀船があったとしても大変そう。管理している人に敬意を評します。それにしてもこの地形を白島崎と呼ぶ以外には表現のしようがないですね。

そのまま布施の集落で食事をして、島を一周して戻るつもりだったのですが、目当てにしていた店が臨時休業。急いで中村の集落まで戻り、「さざえ村」に収まります。名物のさざえ丼とさざえの刺し身のセットは信じられないほどの美味しさ。大変行きにくい場所ではありますがぜひ味わってみてください。ソフトクリームも最高でした。あごだしをお土産に購入。隠岐ではトビウオの漁も行われており、中村集落に加工設備もあります。

ルートを変更して内陸を縦貫する県道中村津戸港線を通って西郷に戻ります。途中にはかぶら杉という変わった樹木もあります。隠岐の原生林も興味深いところではありますがなんせ通行止めが痛かったです(そもそも時間不足でしたし)。岩倉の乳房杉とかも今度しっかり見に来たいところ。

しばらくすると大きなダムが車窓に現れます。島後は全体的に離島とは思えない車窓風景(たとえばダイナミックな直線など)が多いですね。

島内の別の場所ですが、こんな感じ

西郷に戻り、船の時間にもあまり余裕がないですが最後の訪問として玉若酢命神社へ。こちらにも隠岐造の社殿(重要文化財)が残っています。水若酢神社に比べると少し本殿に近づいて観察するのが難しいですがこちらもとても良い雰囲気で、随神門(重要文化財)と巨木(=御神木、国指定天然記念物)も含めてコンパクトで整った宗教空間が存在しています。

敷地に隣接するように社家の億岐家の屋敷が残されており、こちらも重要文化財に指定されています。住宅の中もさらっと見学しましたが、一番見るべきものといえば隠岐駅鈴です。駅鈴というのは奈良時代の駅馬制度のなかで整備されたもので、各国にその格付に応じて2~4個の駅鈴が割り当てられました。それから1300年近く/以上が経ちほとんどの駅鈴は散逸してしまい今では存在が確認できませんが、この億岐家は隠岐国造の家系が続いているとされており、このような貴重な文化財をある意味家宝として今の時代まで受け継いでくれました。大変ありがたいことです。

 

ほかにも隠岐倉印などそう簡単には見ることができない文化財を説明付きで案内していただくことができます。全国にただひとつしか残っていない駅鈴と、数個しか残っていない倉印。写真撮影はできないのでぜひ実際に訪れて目で確かめてください。

 

西郷に戻るともう船は出港寸前。手早く駅鈴の描かれた風景印を頂いて港に走り、帰りの船に乗り込みました。短かったけれどもとても充実した1泊2日の隠岐諸島の旅。またいつか来ます(飛行機でも来れますし)。

日本史では遠流の島としての印象が強く、厳しく険しい場所という思い込みをしていましたが、決してそういうことはなく、文化の薫り高く、温かい雰囲気の島でした。

七類港に帰着。今度は松江駅ゆきのバスに乗り込みます。結構満員です(そもそも年度末だったので人の移動が多く、船の中も存在できるスペースを探すのが大変でした)。

 

夕方の松江駅一畑百貨店閉店時間間際、多くの人が出入りしています。

 

松江や出雲市のホテルが全然空いていなくて困ってしまったので、私はこのまま行けるところまで西進することとしました。

 

出雲市からは閑散線区用の気動車。とても早い時間ですが終車なので結構混んでいます。本来はひたすら海岸線沿いを走る絶景の区間。小駅の周りの僅かな街明かりがわれわれを心強くさせるものです。

 

そして終点の浜田に到着。駅員もおらず乗客が去った駅は完全に静まり返っています。この日はこの街で宿泊しました。

2022山陽山陰地方旅行:2日目[隠岐島前]ダイジェスト

山陽山陰地方旅行1日目では、岡山県の矢掛、吹屋、新庄を訪問しました。2日目はその続き。鳥取県米子市からスタートです。今日は珍しく自然満喫型の観光です。

実は米子に滞在するのは初めてだったのですが、街歩きをする時間は取れませんでした。また訪れたい。そのまま駅に向かい境線で境港に向かいます。

当然これは境線の車両ではありません(人が多すぎて撮れなかった)

車内に高校生を満載してゆっくりと進んでいきます。極めて駅が多いですが各駅でしっかり利用があるのが頼もしい。1時間ほどかけて境港に到着です。

少しだけ乗り継ぎに余裕があったので境港駅周辺を散歩。完全にゲゲゲの鬼太郎で染められた町も早朝は静かです。

境港駅から七類港フェリーターミナルへ移動します。境水道大橋を渡る抜群の車窓、速やかに山を越えて七類に至ります。境港から七類は直線距離は極めて近いですが、歩こうとなると大変ですね。

七類港ターミナル周辺は食料を調達するのも一筋縄では行かない静かな漁村ですが、メテオプラザの建物は結構立派です。朝には隠岐の島後ゆきと島前ゆきのフェリーが30分ずらして出港しますが、大きなフェリーが2隻縦列に並んでいるのはなかなか圧力のある風景です。

島前先回りのフェリーくにがに乗船。船内には売店もあり、絨毯敷の部屋や椅子とテーブルが備えられたフリースペースなどいろいろな空間があり広々しています。船酔いで少しヘタってしまったのでデッキには出ず船内でゆったりと過ごしました。

目を覚ますともう島前の特異な地形が窓の外に見え、すぐに知夫里島の来居港に到着です。

来居港はターミナル(観光案内所やお土産屋がある)やガソリンスタンドの他に目立った施設はなく、集落も大規模には形成されていません。後ろの崖に登っていく立派なループ橋が目に付きます。

 

知夫里島に上陸し、早速赤ハゲ山展望所に向かいます。知夫里島の中心集落はターミナルから一つ稜線を超えて別の湾にあり、活発な人の営みを感じる場所で、海も割と穏やかです。いくつか集落を通り抜けて道も細くなり、道路は牧場内に入っていきます。たまに路上にいる牛馬が移動するのを待つ謎の時間を過ごしつつ山を登り、駐車場に到着です。

下り途中の写真のほうが「典型的」だったのでこれで代替します

舗装路にはそこかしこにテキサスゲートと呼ばれる牛馬侵入防止用の幅の広い鉄網のようなものがあるのですが、我々人間もたまに足を取られそうになります。

駐車場からうねうねと上がっていくと赤ハゲ山展望台があり、ほぼ360°の大パノラマに出迎えられます。北側にはカメラの画角に収まりきらないほどに広く展開した西ノ島。真ん中がくびれているのがよくわかります。翻って南側は知夫村の主要集落の方面。角度的に人家が見えるのは仁夫の集落ぐらいですが、このような険しい地勢の島にもかなりの生活の営みが有ると考えると感動します。展望台はあまりにも風が強く到底生活できるような場所ではありませんし牛馬もあまり来ませんが、集落が立地している場所はうまく風を山で避けるような形になっているのでしょう。

北側 西ノ島を眺める

西側 なにもない

南側 知夫里島の集落方面

つづいて道路上の牛馬に注意しつつ知夫赤壁へ。駐車場の脇には古墳があり驚きました。

肝心の赤壁ですが、まさかのまさかの遊歩道に牛が通せんぼ。突かれたら怖いし脇に出るわけにもいかないのであえなく退散。再訪を期します。



急いで下山して、内航船に乗船。島前の内航船は高速船タイプとフェリータイプがあり、島前各港間の物資や乗客の輸送をしていますが、とくに「いそかぜ」については極めて本数が多いので驚きました。同一人口規模の本土の自治体に向かうバスより本数が多く、夜遅くまで動いているぐらいかも知れません。島前から島後や本土に向かうのは一日2~3便ですが、島前内の移動はこの海の上を走るバスのような存在によりかなり便利になっていると思います。しかも1回300円とかなり安い。途中の海士町菱浦の港からは大量の乗船客。船で立ち席というのはほんとうに久しぶりに見ましたし、島の活気を感じられてとてもよかったです。

海士町菱浦

西ノ島の別府港で下船。内航船は小綺麗なターミナルを利用しています。人家も結構ある。

西ノ島町別府

別府港からは山を越えて国賀海岸に向かいます。離島とは思えないしっかりした道とダイナミックな自然景観に驚きの連続です。

浦郷はかなりまとまった集落ですが、その内部を探索する時間はなく直接国賀海岸へ。最近の台風で結構大きい被害が出ていたようで道はきれいに修復されている部分が多いです。

 

国賀海岸は「天上界」とよばれる奇岩と、「通天橋」と呼ばれる海蝕洞地形が見どころとされています。駐車場のところから延々と坂を下っていくと園地になっており、異常な尖り具合の岩を正面から眺められたり、また雰囲気のいい神社があったりします。少し右側に行くと通天橋のダイナミックな地形を眺めることができます。

 

 

つづいて摩天崖へ。摩天崖は日本でも有数の落差で、海面上200m以上から直接切り立った崖の上に立つことができます。その正確な高さの感覚は真上に立ってしまうと正直よくわからなくなりますが、西ノ島の西海岸を一望してその地形を険しさを体感することができますし、振り返れば西ノ島のくびれをまた違った方向から確かめることもできます。荒々しさの中にも繊細な曲線美を感じることもある、感動的な島です。また崖の上に立つ馬が、在来種なのか大変小型ですがとてもかわいいです。彼の目からはこの風景はどのように見えているのでしょうか。

 

港に戻る途中に島の中部、波止集落から焼火山に登っていきます。途中の道は台風の爪痕が残り、かろうじて車一台分の幅が確保されている外は鋭利な石がごろごろしているようなところもありました。

焼火山は島前の中心となる火山で、知夫里島知夫村)や中ノ島(海士町)、また西ノ島の黒木から珍崎にかけての部分はその外輪山のようなものと考えられています。島前の中では最も目立つ存在であることから、古くから信仰の対象となされ、その中腹には江戸時代の建築が今も残り、海上交通の神を祀る焼火神社があります。

 

急な参道を登っていくと、正面の拝殿の横に直交するように、なんと岩盤にすっぽりとはまるように本殿があります。行く前に写真で当然確かめていましたが、実際に見るとなかなか神秘的で感動モノです。

 

このような建築を見ると、離島に優れた宮大工がいたのかと感心してしまいそうになりますが、実際には上方であらかたの部品を加工して、それを隠岐まで運んできてプレハブのように組み上げたそうです。いずれにせよコンパクトながらも曲線美も感じられ、そしてなによりもその空間にあるということ自体が尊いです。数百年の厳しい気候に耐え信仰をつないできた社殿は何を語っているでしょうか。西ノ島は自然景観の優れからで取り上げられることが多い島ですが、こういう文化の蓄積も注目されるべきで、少し不便ではありますが西ノ島を訪れたらぜひ焼火神社にも寄っていただきたいと思います。

別府港に戻ると島後への船が出る直前でした。島前と島後は「隠岐」と一緒くたに扱われることは多いですが、そんなにすんなりと移動できるわけではなく、船便は高速船とフェリーを合わせて一日2~3便程度しかありませんし、フェリーだと1時間以上かかります。たそがれの日本海を大きなフェリーでゆったりと進んでいくと、島後・隠岐の島町の西郷港に到着しました。

18:30ぐらいの到着でしたが、まだオフシーズンだったこともあって夜まで営業している店はまばら。郷土料理店で軽く名産の隠岐そばを食べて、本土にもありそうな大きなドラッグストアがあるのに驚きながらそのまま宿へ向かいました。

 

 

 

2022山陽山陰地方旅行:1日目[矢掛/吹屋/新庄]ダイジェスト

生業を積み重ねて、まちを紡ぐ。

四国旅行の6日目には徳島駅から脇町・塩飽本島を経由して岡山駅に戻ってきました。今回はタイトルは変更していますが(前回宣言したとおり)その続編。岡山駅からとりあえず山陰方面に向かいますが、ただ伯備線でまっすぐ行ってしまうのも味気ないので、岡山県内陸部をうねうねと眺めたという記録です。今回は行き先がわかりにくいので題名に訪問地を付しています(他の記事も順次変更するかもしれません)。

山陽や山陰はすでに何度か訪れているので、真の有名所というのはここでは掲載できないかもしれませんが、数回目だからこそのややディープな見方を楽しんでいただければと思います。

(2022.7.20 そういえば新庄村は備中ではなく美作だったのを失念しておりましたので改題。)

 

岡山駅の朝は雨。さすが政令指定都市の駅前は人通りが多いです。ここから矢掛へ向かいました。

矢掛は西国街道の宿場町。ごく最近に指定された重要伝統的建造物群保存地区です。備前国内の西国街道が概ね山陽本線(一部は赤穂線)や国道2号と同じような場所を通過していたのと対照的に、備中国内ではそれらからやや内陸よりを通過しており、現在の吉備線井原線の道筋にあたります(備後国には神辺から入ることになります)。

 

山陽本線沿いの各都市は大きく発展しますが、倉敷の美観地区や玉島(駅からは遠い地域)などにかなり歴史の蓄積を感じられる街並みを残しています。一方で西国街道沿いは一時的に交通の主軸から外れたわけですが、だからといって衰微したわけでもなく、矢掛町は現在でも岡山県内の「町」の中ではもっとも人口規模が大きくなっており、重伝建に指定されている旧街道筋も、タイムカプセル化しているというよりは、豪奢な古建築の合間に現役の商店も存在しており、今でも人通りや車通りが絶えない生きた街並みといった感じがあります。

街並みの中心となる建物は脇本陣の高草家住宅と本陣の石井家住宅で、ともにあっと驚く規模の現存建物で、重要文化財に指定されています。この2つの屋敷は現存町家ではそうそう見ない凝った意匠のある建物で、古くの人通りの多さを物語っています。曜日の関係でどちらの内部も見学できなかったのが残念。

その二軒以外にも多くの建物が修景を施されたり、もとより現存であったりと連続的な街並みを形成し、特に一階部分の商店が生き残っているのが活気を生み出していて好印象です。無電柱化や舗装、特徴的なマンホールまでもにこだわっていて、今後の岡山観光では注目スポットの一つではないでしょうか。というか無電柱化の風景のすっきりさに与える威力ってすごいですね。

*ほぼ同じ場所で画角を違えています どちら側も違った味があってよい

つづいて高梁市(旧成羽町)にある吹屋地区へ。結構最近までまともにすれ違えない道をひたすら進まないと到達できなかったほど隔絶された山の中ですが、現在では広域農道のおかげで交通状況は改善しています(路線バスは依然として狭い道を通ってきますが)。

吹屋地区は重伝建のなかではかなり有名な部類に入るのではないでしょうか。主にベンガラ(酸化鉄材料で、赤色の顔料として用いられた)の採掘・精製・販売で栄えた街並みは、緩やかな坂に沿って長く曲りくねるようにして続き、瓦を鈍色に整え、一部の家屋は壁面までもベンガラを塗っています。また多くの家屋が格子戸など木製の意匠をベンガラで彩色しており、ここにしかない特異な景観を形成しています。

訪れた時期は3月のもう下旬でしたが、まだ山の上ではオフシーズンと言ったところで資料館は一部しか開館していませんでしたが、それが街並みのなかで最も重要な建物の一つである重要文化財の旧片山家住宅です。主屋の内部は広い土間に落ち着いた設えで整えられており、山奥の集落であることを全く感じさせませんし、2階部分についてもかなり機能的な構造をしています。そして裏側には数多くの蔵が建っており、以前ご紹介した新潟県関川村の渡邊家に通じるところがありますが、こちらでは内部が資料館として開放されており、貴重な資料が数多く公開されています。あまりにも優れた空間に思わず長居をしてしまいました。

観光地として(重伝建の中では)比較的初期に見いだされたため、土産物屋やレストランは数は多くないながらも整っており、また街並みの中にある郵便局では、かなり凝った風景印がいただけます(外に風景印の宣伝が有るのも観光地ならでは)。

 

街並みをゆったりと歩けば各家にちゃんと説明板があり、家主の変遷などが細かく書かれていて、街全体が博物館というのはこのことかという感情になるところです。

 

つづいて吹屋から成羽方面に数kmにある旧広兼邸。八つ墓村のロケ地にもなったことのある屋敷ですがそのようなおどろおどろしさのようなものは一切なく、個人邸のものとは思えない巨大な石垣が印象的です。物見櫓のある門をくぐれば細長い屋敷地にうまく建物が収まっており、谷を見渡せばその向こうに山が連なります。あたりの山は古くは全てこの屋敷の持ち主の私有地だったとのこと。勢いを感じます。

そういえば下谷地区に言及するのを忘れていました。下谷地区は吹屋から川面方面に急坂を下った先にある数軒の集落ですが、そう単純に済ませていいものでもなく、狭い県道沿いに大きな屋敷が向かい合って存在しています。そのなんとなく赤茶けた軒先の風景は全く観光地化されたものではなく、むしろ生活がまだそこに息づいているような感覚を想起させるようなものでした。いつまでも残していってほしい風情です。

さらに進み鳥取県境の明地峠にたどり着きました。雲の合間からまだ雪の残る大山の頂きを眺めることができます。大山は米子市や大山町側から見ると美しい円錐形をしていますが、北栄町琴浦町から眺める、今回のように岡山県側から眺めるなどすると横や裏の稜線とのつながりが見えてまた違った美しさがあると思います。手前に広がる森林も合わせて、この見通しのよさは凄まじいダイナミックさといえます。

鳥取県に入ってすぐの日野町の金持神社に参拝。金持神社は名前からして金運が向上しそうな稀有な神社ですが、行った時間が遅かったのか社務所売店はもう開いていませんでした。しっかりお願いはして、神社に行く途中にある清らかな川をしばし眺めていました。

祈願

再び岡山県に戻り、新庄村の道の駅へ。店内はとてもおしゃれに陳列されていて、山里ならではの物産品も多く販売されています。思わずさるなしのジャムを購入してしまいました。

 

ここでの見どころは「がいせん桜」と呼ばれる一種の街路樹が調和したまちなみです。古くから出雲街道の一つの拠点として栄えた新庄では、様々な建築の様式が混在したわりかしゆとりのある印象の宿場町が形成されました。さらにこれは明治時代の後補ではあるのですが、各家の前には桜が植えられており、街路樹という概念が登場した日本ではごく初期の例なのではないかと思います。温暖な地域ではもう桜が見頃を迎える時期ではありましたが、まだ山里の春は遠く、澄んだ青空と遠くに見える特徴的な山の緑がまだ冬の空気を伝えているように思いました。美しい村が雪に閉ざされるときにも、そして桜が咲き誇るときにも、時季をかえてまた訪れたい豊かな里です。

山里なのに極めて直線的

理想郷

そのあとは日も暮れてしまったので鳥取県の米子に向かい宿泊となりました。2日目に続く。